自分と他人

自分のことは、案外他人の方が知っているということは往々にしてある。

 

逆に他人のことを自分の方がよく知っているということもよくある。

 

自分のことを客観的に見るということは案外難しいものだ。

 

では

自分がそういうつもりでなくても、相手にそう伝わったら、それはどちらが事実として本物か。

自分の気持ちが本物か。

相手に伝わったことが本物か。

 

きっと。

 

どちらが本物ということではない。

 

どちらも本物だ。

 

ならばどちらも受け入れるという態度がよろしいのだ。

 

 

全強化と部分強化

全強化というのは例えば、何か学習する時に毎日や、毎時間といった高頻度で訓練を行うということだ。

学習のスピードは速いが、学んだものの忘却も速い。

部分強化というのは、何か学習する時にある程度の間隔をあけて、訓練をするというものだ。

これは学習のスピードは遅いものの、学んだものの忘却も遅い。

 

つまり付け焼き刃的に習得したものは、やはりすぐに忘れてしまうし、きっと質もよくないのだ。

逆に年月をかけて、ゆっくり習得したものは

年月をかけたぶん忘れないし、質も良いのだろう。

 

 

 

 

誠実には冷静さ、不利な状況には熱意

誠実には冷静さを欠いてはいけない。

しかし、誠実さと冷静さだけで全てをカバー出来るといえばそれは違う。

 

人に物を伝える時には誠実だけでは不十分なのだ。

特に逆境とも言える状況の時に、誠実さだけで淡々とかたられてもそれは、あまり効果的に人の心に届くわけではない。

 

むしろ多少誠実さを欠いた熱意のほうが、信頼できるようだ。

思い込みと推理

思い込みと推理

両者は全く異なるものだ。

なまじっか自分は推理をしていると思っている人ほど、思い込みで考えているからたちが悪い。

 

ただ目の前の事実を正確に捉え、その思考を繰り返し、誰がいつ見てもそうだと納得いく推論をたてることが推理である。

 

しかし、実際目の前の事実を正確に捉えることすら、難しい。

それを難しいというを分かっていないと、勝手に自分の思い込みたい通りに思い込むのが人間というやつだ。

 

推理というのは失敗は許されない覚悟で望むべきものだ。

一点の矛盾を示さず、曖昧さを回避した結論を導くこと。

そこに妥協は許されない。妥協はミスリードの原因になるからだ。

 

そして何か合ったときも

誤解を招かないためにも

すべてが繋がるまではなにもいうべきではないと思うのだ

 

 

 

本物と偽物

子供は正直だ。とよくいう。

つまり大人は嘘つきなのか。

 

大人になって本当のことを言ってしまうのは、いけないことなのか。

そして

本当のことを知ることはいけないことなのだろうか。

 

かといって、では、偽物を信じて生きて行けというのだろうか。

 

それは悲しすぎやしないだろうか。

10年

今から10年前の自分は何をしていただろうか。

どんなことを思っていただろうか。

 

今から10年前の自分は、自分が今こんな生活をしていると想像出来ていただろうか。

 

およそ想像出来ていなかったろう。

 

であれば、

これから10年先

自分がどんな人になっていて、どんな生活を送っているのかということは想像つく訳もないのだ。

 

自分にとっていわゆる人生の分岐点となるものは、行き当たりバッタリなもので、

 

それこそ運に任せているといってもいい。

考えて、分かるものなら答えは見つけられるが

考えても、分からないものは分からない。

ならば考えるだけ無駄であろう。

 

長いものに巻かれ、流れに身をまかせる自分を

そんな適当主義な自分を自分は結構気に入っている。

多面体ということは

改めて言うまでもないことだが、私たちは3次元の中に生きている。

私達の体はもちろん3次元であるし、周りの物体も例外ではない。

 

この世のありとあらゆるものは割りと3次元なのかもしれない。

ともすれば、誰かが今抱えている問題や悩みなどもきっと3次元の多面体のようなものであるのだろう。

 

問題や悩みをまるごと理解し、解決したいなら。

問題が多面体であることを理解しなければいけない。

多面体であれば、見る方向によって形は変わる。多面体を切った時に、切る方向によって切り口は変わる。

 

様々な視点ややり方から、全体像を見渡すことは、問題解決において、非常に重要な事だと個人的に思うのだ。