一過性は偽物だ

一時のテンションに身を任せた結果、失敗した、なんていうこと。よく聞きますよね。

 

一時の快楽や気持ちというのは僕は偽物だと思っています。

 

例えばもうすぐクリスマスですが。

 

クリスマスでぼっちなのは寂しいなとか、彼氏彼女が欲しいなーとか。

何かと人肌恋しくなりますよね。

そういう気持ちというのは、クリスマスの時に感じる感情なわけで。

クリスマスが終わったら、消えてなくなってしまうかもしれない。

そう考えた時に、そのような感情は本物ではなく偽物だと僕は思うのです。

 

本物とはなにか。

それは今の自分にはわからないのかもしれない。

 

 

 

 

 

家畜化

いきなりなんの話だと、思われるかもしれません。

 

ただ僕の性質上、動物に関する知識が多いので

それに関する日記です。

 

乳牛は祖先の10倍のが牛乳をだし、鳥は50倍のたまごを産む。

 

家畜化されることによって、動物の優れた潜在能力が発揮されるようで。

要は動物をアスリート化、スペシャリスト化する事で能力を伸ばすことができるということです。

 

その側面だけ見ると

 

僕らも似たようなことをやっているのかもしれません。

例えば、テストをするとき、知識を頭に入れる作業をしますが。

それは自分が自分自身を家畜化するといってもおかしくないかなと思います。

 

まぁ文章づらだけ見ると意味わかりませんがね

 

真面目なひとほど生きづらい世の中で

多大勢が正義だとは限らない。 

同じ考えを持っている人が多いというだけで、必ずしもそれが正しいかというとそうではない。

合理的ではあるが、間違っている考えが結構蔓延しているのがこの世の常であると思います。

 

だから常に真面目で、ただしくて、まっすぐな人であるほど、変わり者と言われて、生きづらいです。

真面目だから妥協をゆるさず、真面目だからこそ、いつでも本気で。

それは本気でない人から見れば時に攻撃の対象になる。

 

本人のためを思って良かれと思って言ったことが帰ってその人を傷つけて、その優しさが伝わらない。

 

 

世界が不真面目で優しくないから、

 

不真面目で、優しいほど生きづらいのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

押し付けがましい願望

どうして人は人に対して、レッテルや願望を押し付けてしまうのでしょう。

 

例えば金髪でガングロのギャルがいて、

私医者なんです〜と言ったとして誰が信じるのか。いや誰も信じないですね。

白衣着てたら信じるかな?

 コスプレプレイかなとも思うね。きっと

 

多くの人は結局、物を考えるときに

自分の経験則から結果を導き出そうとする。

 

目の前の事実を率直に見て判断する人は

めちゃくちゃ素直な子か?もしくは探偵か何かをですね。

 

得てしてほとんどの人は自分の見たいものしかみない。

願望を当てこすりして、押し付けて、勝手に失望して。 それを無意識のうちにやっている人が多いのです。

 

願望が現実とそぐわなかったとき、

失望して、勝手に悲しんで。挙句の果てに罵倒なんかして。

 

でも、願望を押し付けられていたほうは?

他人から理想を押し付けられて、現実と理想の差に苦しんで、結果がともわなければ罵倒され。

何もしてないのに失望されるのです。

 

 

もちろん、アイドルだとか、芸能界とかそう言う世界では、自分を売ってお金にして稼いでいて、一般人からの期待に答える義務が発生するので、また話が変わってくるでしょうが、、、

 

利潤が発生しない、普通の人間関係においては、相手を正しく、正直に見ることは重要です。

 

だから俺は人に何も期待はしません。

何も期待しなければ、人に対して理想を持つこともなく。よって歪んだ幻想を相手に押し付けることもなく。

正直にひとをみる生き方ができる気がするからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千日手

千日手を知っていますか?

将棋で何度も同じ手を繰り返し、先手と後手がいたちごっこのようになって、場面が進展しない状態のことを、千日手といいます。

昔読んでいた将棋の本にはこう書いてありました。

千日手になったら、攻めている側が手を変えなければなりません、と。

よくもまぁいまだに覚えていますね。

 

攻める側、何かをしようと働きかける側は、

損をしてしまうのではないか。

わざわざあれやこれやと手を変えて、何かを求めるのはとてもエネルギーを必要とすることではないか。大変なことではないか。

それに対して守る側はどうでしょう。

攻める側に対してただ逃げていれば良いだけ。

特に何もせずとも働きかけられ、それに乗っかって行けばいい。楽チン。

 

そこにどうも差を感じざるを得ないのです。

 

攻める側は損をして、守る側は何もしない。

 

攻める側は

やはり何かをする、行動に移すということは、

めんどうで。疲れてしまう。

 

でも、それでも

めんどうをかける価値がある物を見つけたい。

損得を超えて何かを夢中に、好きになれる事を見つけたいと、誰しもが思うのです。

 

例え、千日手になったとしても、それを乗り越えていく事を苦労とも思わないような、

そんな好きになれることがあったらなぁとおもいます。

 

 

 

百合について

例えば突然知らない人に

百合って知っていますか?

と聞かれたとしましょう。

すると博識な紳士、もしくは淑女であるみなさんはこう思うはずです。

どっちの百合だろう?花か?もしくはジャンルか?と。

 

そう今回は百合です。

百合について思ったことがあります。

女の子同士のジャンルは百合と言われることがよくあります。綺麗な花に例えて表現することで、そのジャンルを言い表しているとも言えるでしょう。

しかし、男同士のジャンル、いわゆるボーイズラブは花に例えた言い方がない。

男女平等が唱えられる現代でこれはおかしい。ちゃんとボーイズラブにも別名が必要だ。

みなさんにそれぞれ考えていただきたい。どのような花がふさわしいかと。

 

つまるところラフレシアがふさわしいかと思います。理由はご想像にお任せ致します。

 

 

不毛

いつも思うわけではないのだけれど、時々不毛な考えをすることがあります。

あの時こう言ってあげればよかった、とか、これは言い過ぎだったな、言葉をモット選ぶべきだったなとか。

もう終わってしまったことは取り返しがつかないのが世の常で、

後悔してももう遅いということはよくあることです。

 

よく

喉元すぎれば熱さを忘れるといいます。

でも熱さは果たして本当にわすれていいのかというと、そうでもないかと思う。

忘れるべき熱さは忘れるべきだが、忘れてはいけない、直さなければいけないところは忘れるべきではなきのだ。